「路地裏の京都」展(ベルリン日独センター、2003年)カタログの解説文

From the catalogue of the exhibition “Kyoto in the Back Alleys” (Japanese-German Center Berlin, 2003)

甲斐扶佐義の世界

三島憲一(ドイツ哲学者、大阪大学名誉教授)

甲斐扶佐義の世界は、伝統でもなければモダンでもない。あるいは、よく言われるその両者の共生でもない。彼の作品の主題は、京の町の時に寂しい、時ににぎやかな小路である。さらには歴史の折り重なった道である。また、日本のどこにでもあるごく普通の生活がしみ通っている町の風景でもある。しかし、彼の写真はもちろん街路に尽きるものではない。さらなるモチーフは、この写真家を、いやレンズを見つめる子供たちとその遊びであり、時には猫ですらある。あるいは、人生の徒労を宿しながら、視線に元気を宿している老人たちである。だが、甲斐の好むモチーフはそれにもまして若い美しい女性たちである。彼女たちが自分自身の魅力を知っているのはもちろんだが、そうした自覚された魅力とは別に、彼女たちが意識しないところで、まさに意識が届かないがゆえに一瞬漏れてくる、自覚されざる魅力を、その瞬間を撮ろうとこの写真家は努めている。甲斐の写真に登場する人々は、特別に野心も強い望みもない人々、これといってすごいことをしてきたわけでもなければ、将来大物になるわけでもない人々である。しかし、日常生活の専門家として、人生に時々訪れる魅力的な美しい瞬間をたっぷり味わうことを知っている人々である。こうしたひそやかな生活の楽しみを捉え、そして、この矛盾に溢れた京の町に彼らを結びつけている魅惑の謎をとくのが、この写真家の望みである。したがって、甲斐の写真には大物の知識人や芸術家の、研ぎ澄まされた、写真用に撮られた顔はほとんど見ることができない。彼の写真の中の人物たちは、自分がなにものかであるという、ナルシシズムとは無縁である。彼らはただ、シャッターが押されるのを知っているだけである。いやそれも知らないことも多いかもしれない。その意味では撮影の散策から帰ってくる甲斐は、ベンヤミンの言う「あの芸術写真なるものを沢山撮って家に戻ってくるアマチュア」と変わりないかもしれない。このアマチュア写真家からベンヤミンは、「彼らは、森の中の待ち伏せ場から撃ちまくり、獲った沢山の獲物を持って帰ってくる猟師より喜ばしい存在というわけにはいかない」と謎めいた距離を取っている。しかし、甲斐にあっては、ベンヤミンが彼の『写真小紙』で評価できなかったことが、実現しているという見方もできる。それは、写真の歴史でもことほがれているあの芸術的モダニズムが登場してから100年以上にして、このアヴァンギャルドと、他方の「自分自身、近い家族と親戚、友人、そして愛する人の肖像写真」にのみ熱中するアマチュアとのあいだの領野を切り開くことである。それは、日常生活においてアウラが放出する幸福の瞬間という領野である。

先に触れたベンヤミンはまた、写真の技術が加速度的に進化した19世紀末の芸術家たちは、進歩に対してどうしていいか分からず無力で、「強い照明のために消えてしまったアウラを、なんとか取り戻そうとしてありとあらゆる修正術を使っていた」と述べている。その上で、「とはいえ、写真にとってやはり決定的なのは、写真家と彼の技術との関係である」とはっきり言い放っている。甲斐の写真にはもちろん修正術は施されていない。修正のかわりにあるのは、表情をよぎる光と影の戯れである。同じ光と影は京の小路にも、家の壁にもたわむれている。アウラは影を必要とし、照明の強さで消されてはならないのである。写真の技術がいかに進歩しようとも、またデジタル化がいかに進もうとも、甲斐が古典的なモノクロ写真に固執しているのは、その点で理由があるのだ。つまり、ベンヤミンの言うような「無力」からではなく、ますますおもちゃ化してくる写真機材からのよく考えた上での内的な距離にもとづいているのだ。意識的にアマチュア的な技術を使う甲斐は、アウラの偽装を必要としない。それどころか、日常のアウラをとらえるときの甲斐は同時に、静かなパトスと抑えた怒りを込めたイタリアのネオリアリズム映画の技術を思わせる知覚戦略を駆使して、日常生活の悲惨をも、しかも人生の快楽を楽しむアウラ的瞬間の中にも潜む悲惨をもドキュメント化しようとする。それは、容赦ない近代化の中で破壊されていく京都の町の生活の悲惨でもあるが、それだけでは多分ないだろう。それゆえ、甲斐にとっては、モノクロ写真が、ベンヤミンの言う写真家と技術との決定的な関係の要請なのである。たしかにそのようにしてできた写真の中には、似非ロマンチックでキッチュの臭いのするものもなくはない。それは認めよう。すべての写真が成功していると言えないこともたしかである。しかし、あまり成功しているとは言えない写真の中からも、この破壊されつつある町に、しかもこの個性を抑える自己破壊的な社会に生きていかなければならない悲哀が、私たちに語りかけている。同時に、誰の中にも潜んでいて、いつなんどき爆発するか分からない幸福の可能性が語りかけてくる。幸福の中の悲哀、悲哀の中の幸福、と言ってもいいかもしれない。

おそらくこうした両義性は、ひょっとしたら京都という町の性格に相応しているのかもしれない。この町の中心はビジネス街である。都心は大銀行と巨大なデパート、そして、あまりにも多い鉄筋コンクリートのホテルが占拠している。資本主義とその固有の自己破壊力は、この「古き都」をすら容赦することはない。そして町の西から北の端を通って東山の裾にまでつながる帯状の領域には、美しい庭を備えた多くの神社仏閣が建っていて、そこには観光客が群をなしている。そこでは、ついに京都に来たことに、また再び京都に来たことに喜び、それだけで幸福な観光客たちが群れている。こうした観光用の京都は、カラー写真の京都、カラー写真をつや出し印刷した京都である。しかし、演出たっぷりのお茶席と歴史的衣装行列の京都、観光客が溢れるいくつかの箇所から成る京都、こうした京都は、夕方仕事が終わってから飲み屋に行く人々の京都、そして飲み屋でおもしろい議論と、新しい人に会うことを求め、なによりもアルコールの力で自分を開こうとする人々の京都とはあまり関係がない。とはいいながらも、夜な夜な呑みにでかける男女の生活は、もちろんのこと歴史的な町としての京都の雰囲気がなければ考えられない。すでに通りの名前にしてからも奇妙な、あるいは高貴な響きがする町である。彼らはもちろん由緒ある町に暮らしていることは知っている——だが同時に、そうしたことは彼らの個人的な生活の経験とは大した関係のないことも事実である。

この町には幸福と悲哀の不思議な絡み合いが漂っている。特に観光客や小金を持ったスノッブには無縁のごく普通の飲み屋やバーにその不思議な共在が感じられる。甲斐は、日本文化論をめぐる保守的な議論からは距離を取っているが、ひょっとするとその甲斐も、美と幸福のうつろいやすさを、すなわち幸せの中の悲哀を描こうとして来たあの伝統に属しているのかもしれない。しかし、甲斐はそれを自然を使ってではなく、この矛盾に満ちた町の日常生活を通じて描き出そうとしている。そのためには、一見ナイーブに見えるこうしたレアリズムが方法的選択なのである。

甲斐扶佐義は、1949年に九州の大分に生まれた。1968年大学進学とともに京都の町に来たが、たちまちのうちにあの嵐のような時代に巻き込まれた。反ベトナム戦争のデモの時代にあって、アメリカ軍の脱走兵の援助や、彼らの第三国への出国のための連帯活動などが若者を捉えた時代である。1985年以降甲斐は、提灯に飾られた高瀬川の横の木屋町で八文字屋という飲み屋(バー)を経営している。うず高く雑誌や本が積まれ、ますます汚くなっていくところが唯一の取り柄とも言える飲み屋である。だが、ここには男女に関わりなくジャーナリストが、社会から距離を取った人々が、そして学生がやってくる。また芸術家志望の人々が、本当の芸術家が、映画関係志望の人々が、本当の映画関係者が、そしてなによりも、自称詩人や自称小説家がやってくる。もちろん楽しい冗談を振りまく酔客も。東京からやってくる出版社の編集者たちには、八文字屋は必ず寄らねばならない場所となっている。京都在住の外国人でも立ち寄る人が多い。ここに来ると友人や知り合いに会う、また友人の友人や知り合いの知り合いに会う。女性友達にも、そして女性友達の女性友達にも。時々はそうした偶然がちょっとした悲喜劇をもたらすこともなくはない。甲斐はそんな飲み屋のカウンターの奥で、あまりにも議論が激しくなると仲介役に回り、ときにはおもしろい話し相手になり、ときには、多少いい加減な噂を流す。若く美しく、時には気分屋で反抗的でもある女性たちの魅力に当然ながら目を閉ざすことのない彼は、長いご託を並べる男性客より、そうした女性客との話の方が好きなようであり、永遠のカサノヴァとは言わないまでも、時にはメフィストフェレス的誘惑者の役を演じることもあるらしい。いずれにしても、常に常連の客たちの核であり、結晶の芯である。この八文字屋は、年中無休でも有名である。クリスマスでも大晦日でも、元旦でもお盆でも必ずやっている。また何時になっても客がいるかぎりは閉めることがない。甲斐もそうした長居の客とつきあうのである。午前4時も珍しくないであろう。もちろん、近くにはラストオーダー午前10時という店もあるそうだから、それだけでは大したことはないかもしれないが、しかし、甲斐はこの仕事をしながら多くの写真を撮り、展覧会を組織し、その上で、京都の町の北の方にある「ほんやら洞」というレストランも手伝っているのを見ると、いったいいつどこで寝ているのやらと、思わざるを得ない。ついでに言えば、この「ほんやら洞」は、京都の左翼知識人や学生の、そしてこの京都という盆地にしかいない特殊な種類の職業革命家のたまり場としてすでにベトナム戦争の時代から有名で、歴史に残る名前といっても過言ではない。八文字屋でもこの伝統は生きている。もちろん時代とともに客は変わっているようだ。職業革命家はさすがに減った。しかし、この飲み屋には、日本の各地の出身でありながら、それぞれ一風変わった経歴の持ち主のノンコンフォーミズムに徹している若い男女、中年の男女、初老の男女が、この矛盾に溢れた町に巣食うラジカルな個人主義者たちが、それぞれの寛容さと反抗精神と、性的風紀紊乱への若干の欲望を込めて毎晩集まってくる。いくらかの悲哀と、幸福へのいくらかの希望を込めて集まってくる。ひょっとすると今宵、突然そうした美しい瞬間がビールのグラスに映るかもしれない。ここに集められた写真はそうした京都の姿である。

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