甲斐扶佐義の世界
三島憲一(ドイツ哲学者、大阪大学名誉教授)
甲斐扶佐義の世界は、伝統でもなければモダンでもない。あるいは、よく言われるその両者の共生でもない。彼の作品の主題は、京の町の時に寂しい、時ににぎやかな小路である。さらには歴史の折り重なった道である。また、日本のどこにでもあるごく普通の生活がしみ通っている町の風景でもある。しかし、彼の写真はもちろん街路に尽きるものではない。さらなるモチーフは、この写真家を、いやレンズを見つめる子供たちとその遊びであり、時には猫ですらある。あるいは、人生の徒労を宿しながら、視線に元気を宿している老人たちである。だが、甲斐の好むモチーフはそれにもまして若い美しい女性たちである。彼女たちが自分自身の魅力を知っているのはもちろんだが、そうした自覚された魅力とは別に、彼女たちが意識しないところで、まさに意識が届かないがゆえに一瞬漏れてくる、自覚されざる魅力を、その瞬間を撮ろうとこの写真家は努めている。甲斐の写真に登場する人々は、特別に野心も強い望みもない人々、これといってすごいことをしてきたわけでもなければ、将来大物になるわけでもない人々である。しかし、日常生活の専門家として、人生に時々訪れる魅力的な美しい瞬間をたっぷり味わうことを知っている人々である。こうしたひそやかな生活の楽しみを捉え、そして、この矛盾に溢れた京の町に彼らを結びつけている魅惑の謎をとくのが、この写真家の望みである。したがって、甲斐の写真には大物の知識人や芸術家の、研ぎ澄まされた、写真用に撮られた顔はほとんど見ることができない。彼の写真の中の人物たちは、自分がなにものかであるという、ナルシシズムとは無縁である。彼らはただ、シャッターが押されるのを知っているだけである。いやそれも知らないことも多いかもしれない。その意味では撮影の散策から帰ってくる甲斐は、ベンヤミンの言う「あの芸術写真なるものを沢山撮って家に戻ってくるアマチュア」と変わりないかもしれない。このアマチュア写真家からベンヤミンは、「彼らは、森の中の待ち伏せ場から撃ちまくり、獲った沢山の獲物を持って帰ってくる猟師より喜ばしい存在というわけにはいかない」と謎めいた距離を取っている。しかし、甲斐にあっては、ベンヤミンが彼の『写真小紙』で評価できなかったことが、実現しているという見方もできる。それは、写真の歴史でもことほがれているあの芸術的モダニズムが登場してから100年以上にして、このアヴァンギャルドと、他方の「自分自身、近い家族と親戚、友人、そして愛する人の肖像写真」にのみ熱中するアマチュアとのあいだの領野を切り開くことである。それは、日常生活においてアウラが放出する幸福の瞬間という領野である。
先に触れたベンヤミンはまた、写真の技術が加速度的に進化した19世紀末の芸術家たちは、進歩に対してどうしていいか分からず無力で、「強い照明のために消えてしまったアウラを、なんとか取り戻そうとしてありとあらゆる修正術を使っていた」と述べている。その上で、「とはいえ、写真にとってやはり決定的なのは、写真家と彼の技術との関係である」とはっきり言い放っている。甲斐の写真にはもちろん修正術は施されていない。修正のかわりにあるのは、表情をよぎる光と影の戯れである。同じ光と影は京の小路にも、家の壁にもたわむれている。アウラは影を必要とし、照明の強さで消されてはならないのである。写真の技術がいかに進歩しようとも、またデジタル化がいかに進もうとも、甲斐が古典的なモノクロ写真に固執しているのは、その点で理由があるのだ。つまり、ベンヤミンの言うような「無力」からではなく、ますますおもちゃ化してくる写真機材からのよく考えた上での内的な距離にもとづいているのだ。意識的にアマチュア的な技術を使う甲斐は、アウラの偽装を必要としない。それどころか、日常のアウラをとらえるときの甲斐は同時に、静かなパトスと抑えた怒りを込めたイタリアのネオリアリズム映画の技術を思わせる知覚戦略を駆使して、日常生活の悲惨をも、しかも人生の快楽を楽しむアウラ的瞬間の中にも潜む悲惨をもドキュメント化しようとする。それは、容赦ない近代化の中で破壊されていく京都の町の生活の悲惨でもあるが、それだけでは多分ないだろう。それゆえ、甲斐にとっては、モノクロ写真が、ベンヤミンの言う写真家と技術との決定的な関係の要請なのである。たしかにそのようにしてできた写真の中には、似非ロマンチックでキッチュの臭いのするものもなくはない。それは認めよう。すべての写真が成功していると言えないこともたしかである。しかし、あまり成功しているとは言えない写真の中からも、この破壊されつつある町に、しかもこの個性を抑える自己破壊的な社会に生きていかなければならない悲哀が、私たちに語りかけている。同時に、誰の中にも潜んでいて、いつなんどき爆発するか分からない幸福の可能性が語りかけてくる。幸福の中の悲哀、悲哀の中の幸福、と言ってもいいかもしれない。
おそらくこうした両義性は、ひょっとしたら京都という町の性格に相応しているのかもしれない。この町の中心はビジネス街である。都心は大銀行と巨大なデパート、そして、あまりにも多い鉄筋コンクリートのホテルが占拠している。資本主義とその固有の自己破壊力は、この「古き都」をすら容赦することはない。そして町の西から北の端を通って東山の裾にまでつながる帯状の領域には、美しい庭を備えた多くの神社仏閣が建っていて、そこには観光客が群をなしている。そこでは、ついに京都に来たことに、また再び京都に来たことに喜び、それだけで幸福な観光客たちが群れている。こうした観光用の京都は、カラー写真の京都、カラー写真をつや出し印刷した京都である。しかし、演出たっぷりのお茶席と歴史的衣装行列の京都、観光客が溢れるいくつかの箇所から成る京都、こうした京都は、夕方仕事が終わってから飲み屋に行く人々の京都、そして飲み屋でおもしろい議論と、新しい人に会うことを求め、なによりもアルコールの力で自分を開こうとする人々の京都とはあまり関係がない。とはいいながらも、夜な夜な呑みにでかける男女の生活は、もちろんのこと歴史的な町としての京都の雰囲気がなければ考えられない。すでに通りの名前にしてからも奇妙な、あるいは高貴な響きがする町である。彼らはもちろん由緒ある町に暮らしていることは知っている——だが同時に、そうしたことは彼らの個人的な生活の経験とは大した関係のないことも事実である。
この町には幸福と悲哀の不思議な絡み合いが漂っている。特に観光客や小金を持ったスノッブには無縁のごく普通の飲み屋やバーにその不思議な共在が感じられる。甲斐は、日本文化論をめぐる保守的な議論からは距離を取っているが、ひょっとするとその甲斐も、美と幸福のうつろいやすさを、すなわち幸せの中の悲哀を描こうとして来たあの伝統に属しているのかもしれない。しかし、甲斐はそれを自然を使ってではなく、この矛盾に満ちた町の日常生活を通じて描き出そうとしている。そのためには、一見ナイーブに見えるこうしたレアリズムが方法的選択なのである。
甲斐扶佐義は、1949年に九州の大分に生まれた。1968年大学進学とともに京都の町に来たが、たちまちのうちにあの嵐のような時代に巻き込まれた。反ベトナム戦争のデモの時代にあって、アメリカ軍の脱走兵の援助や、彼らの第三国への出国のための連帯活動などが若者を捉えた時代である。1985年以降甲斐は、提灯に飾られた高瀬川の横の木屋町で八文字屋という飲み屋(バー)を経営している。うず高く雑誌や本が積まれ、ますます汚くなっていくところが唯一の取り柄とも言える飲み屋である。だが、ここには男女に関わりなくジャーナリストが、社会から距離を取った人々が、そして学生がやってくる。また芸術家志望の人々が、本当の芸術家が、映画関係志望の人々が、本当の映画関係者が、そしてなによりも、自称詩人や自称小説家がやってくる。もちろん楽しい冗談を振りまく酔客も。東京からやってくる出版社の編集者たちには、八文字屋は必ず寄らねばならない場所となっている。京都在住の外国人でも立ち寄る人が多い。ここに来ると友人や知り合いに会う、また友人の友人や知り合いの知り合いに会う。女性友達にも、そして女性友達の女性友達にも。時々はそうした偶然がちょっとした悲喜劇をもたらすこともなくはない。甲斐はそんな飲み屋のカウンターの奥で、あまりにも議論が激しくなると仲介役に回り、ときにはおもしろい話し相手になり、ときには、多少いい加減な噂を流す。若く美しく、時には気分屋で反抗的でもある女性たちの魅力に当然ながら目を閉ざすことのない彼は、長いご託を並べる男性客より、そうした女性客との話の方が好きなようであり、永遠のカサノヴァとは言わないまでも、時にはメフィストフェレス的誘惑者の役を演じることもあるらしい。いずれにしても、常に常連の客たちの核であり、結晶の芯である。この八文字屋は、年中無休でも有名である。クリスマスでも大晦日でも、元旦でもお盆でも必ずやっている。また何時になっても客がいるかぎりは閉めることがない。甲斐もそうした長居の客とつきあうのである。午前4時も珍しくないであろう。もちろん、近くにはラストオーダー午前10時という店もあるそうだから、それだけでは大したことはないかもしれないが、しかし、甲斐はこの仕事をしながら多くの写真を撮り、展覧会を組織し、その上で、京都の町の北の方にある「ほんやら洞」というレストランも手伝っているのを見ると、いったいいつどこで寝ているのやらと、思わざるを得ない。ついでに言えば、この「ほんやら洞」は、京都の左翼知識人や学生の、そしてこの京都という盆地にしかいない特殊な種類の職業革命家のたまり場としてすでにベトナム戦争の時代から有名で、歴史に残る名前といっても過言ではない。八文字屋でもこの伝統は生きている。もちろん時代とともに客は変わっているようだ。職業革命家はさすがに減った。しかし、この飲み屋には、日本の各地の出身でありながら、それぞれ一風変わった経歴の持ち主のノンコンフォーミズムに徹している若い男女、中年の男女、初老の男女が、この矛盾に溢れた町に巣食うラジカルな個人主義者たちが、それぞれの寛容さと反抗精神と、性的風紀紊乱への若干の欲望を込めて毎晩集まってくる。いくらかの悲哀と、幸福へのいくらかの希望を込めて集まってくる。ひょっとすると今宵、突然そうした美しい瞬間がビールのグラスに映るかもしれない。ここに集められた写真はそうした京都の姿である。
Über die Welt von Kai Fusayoshi
Prof. Dr. MISHIMA Ken’ichi, Osaka
Die Welt der Fotos von Kai Fusayoshi ist weder die Tradition noch die Moderne in Kyoto, auch nicht die viel beredete Symbiose von Tradition und Moderne. Seine Sujets sind verlassene, doch lebendige Gassen, Straßen mit anheimelnden Kulissen von Kyoto, auch Straßen voll unauffälliger japanischer Normalitäten, aber nicht nur Straßenszenen, sondern auch spielende und manchmal auf den Fotografen oder in das Objektiv blickende Kinder, oft auch Katzen, auch alte Menschen, die in ihrer Lebensmüdigkeit doch noch eine vitale Aufmerksamkeit ausstrahlen, vor allem aber schöne junge Frauen, die sich wohl ihres Charmes bewusst sind, an denen aber der Fotograf doch flüchtige Augenblicke festhalten will, wo diese schönen Frauen jenen Charme zeigen, der ihrer Kontrolle entschlüpft ist. Bilder von Menschen mit wenig Anspruch und Ehrgeiz, mit bescheidenen Leistungen und ebenfalls bescheidenen Zukunftsperspektiven, die aber als Experten des Alltags wissen, wie sie dem Leben flüchtige schöne Augenblicke abgewinnen können. Bei ihnen versucht der Fotograf auch diesen versteckten Genuss festzuhalten, die Faszination, die sie an das Leben in dieser widerspruchsvollen Stadt bindet, zu entziffern. Man findet bei Kai kaum stilisierte Bilder von Großintellektuellen oder berühmten Künstlern. Bei den fotografierten Personen sind keine narzisstischen Züge wahrzunehmen. Sie wissen nur, dass sie “geknipst” werden und das keineswegs immer. Insofern ist Kai, um mit Benjamin zu reden, wie “jener heimkehrende Amateur”, der “mit seiner Unzahl künstlerischer Originalaufnahmen nicht erfreulicher” ist “als ein Jäger, der vom Anstand mit Massen von Wild zurückkommt”. Was aber Benjamin in seiner “Kleinen Geschichte der Fotografie” nicht würdigen konnte, ist bei Kai Realität geworden: nach mehr als hundert Jahren seit dem Auftritt der auch in der Fotografie viel gefeierten künstlerischen Avantgarde zwischen dieser und dem Amateur, der sich der “Bildnisfotografie des eigenen Selbst, der nächsten Verwandten und Freunde, der Geliebten” widmet, ein neues Terrain zu erschließen, ein Terrain der auratischen Augenblicke im Alltag, ein Terrain des Aleatorischen.
Benjamin sprach bezüglich der beschleunigten technischen Entwicklung der Fotografie auch von der “Ohnmacht jener Generation im Angesicht des technischen Fortschritts”, die in den letzten Jahrzehnten des 19. Jahrhunderts die von der Lichtstärke verdrängte Aura “durch alle Künste der Retusche” “vorzutäuschen” versuchte. Er schreibt dann weiter: “Und doch ist, was über die Fotografie entscheidet, immer wieder das Verhältnis des Fotografen zu seiner Technik”. In den Bildern von Kai ist keine Retusche spürbar. Anstatt der Retusche sieht man das Spiel von Licht und Schatten auf Gesichtern, auf den Straßen, an den Häuserwänden. Die Aura braucht offensichtlich Schatten, darf also nicht durch Lichtstärke verdrängt werden. Ungeachtet aller technischen Erneuerung in der Fotosrafie, ungeachtet aller Digitalisierung bleibt Kai klassischen monochromen Bildern treu, aber nicht aus Ohnmacht, sondern aus wohlüberlegter Distanznahme zu der sich immer mehr zum Spielzeug hin entwickelnden Kamera-Technik. Mit einer bewusst im Amateurhaften bleibenden Technik braucht Kai auch nicht die Aura “vorzutäuschen”, wie viele Berufsfotografen es zu tun pflegen. Mit der festgehaltenen flüchtigen Aura benutzt er allerdings gleichzeitig eine Wahrnehmungsstrategie, die an das kinematographisch verhaltene Pathos und die versteckte Wut des italienischen Neorealismus erinnert. Mit ihr versucht er das Elend im Alltag, das ästhetische Elend, das auch im auratischen Augenblick des Lebensgenusses spürbar ist, mit zu dokumentieren. Es geht ja dabei auch um das Elend des durch schonungslose Modernisierung immer weiter zerstörten Lebens in der Stadt Kyoto, aber vermutlich auch nicht nur darum. Deshalb ist für Kai die monochrome Gestaltung wohl das fototechnische Gebot der Stunde. Zugegebenermaßen sind deshalb seine Bilder manchmal nicht gegen die Gefahr des Romantisch-Kitschigen gefeit. Nicht jedes Bild ist gelungen. Aber schon aus den nicht ganz gelungenen Szenen spricht uns eine Trauer an, die Trauer, in dieser Stadt, in dieser hemmenden und gleichzeitig destruktiven Gesellschaft leben zu müssen, aber auch das Glück, das in einzelnen Menschen schlummert, jederzeit bereit, zu explodieren. Eine Art von Trauer im Glück oder von Glück in der Trauer.
Diese Ambiguität entspricht vielleicht dem Charakter der Stadt Kyoto. Im Zentrum herrscht reges Geschäftsleben. Die großen Banken und Kaufhäuser beherrschen die Szene, aber auch unwahrscheinlich viele Hotels in Form von Betonklötzen. Der Kapitalismus mit seiner vollen Selbstdestruktivität verschont auch die “traditionsreiche alte Kaiserstadt” nicht. Und in dem Gürtel, der sich vom Westen der Stadt über den Nordrand bis zum Fuß der Berge im Osten zieht, stehen Tempel und Schreine mit ihren schönen Gärten, besucht von einer Unmenge von Touristen, die alle glücklich sind, endlich oder schon wieder in Kyoto zu sein. Das touristisch sich präsentierende Kyoto ist das Kyoto auf den Farbbildern in Glanzdruck. Aber dieses Kyoto der inszenierten Tee-Zeremonien und der historischen Trachtenzüge, der touristischen Rummelplätze hat mit dem Leben derjenigen Kyototer kaum etwas zu tun, die abends nach getaner Arbeit in die Kneipen gehen, um interessante Menschen kennen zu lernen und anregende Gespräche zu suchen, vor allem aber mit Hilfe von Alkohol sich zu öffnen. Und doch ist das Leben dieser Kneipengängerinnen und -gänger ohne dieses historische Kyoto auch nicht denkbar. Schon die Straßennamen wie Takakura, Tominokohji oder Gokohmachi hören sich seltsam an, auch ehrwürdig und traditionsreich. Die Kneipengängerinnen und -gänger wissen, dass sie in einer historischen Stadt wohnen. Das tangiert aber ihre persönlichen Erfahrungen im Grunde genommen kaum, obwohl all dieses mitschwingt.
Ein seltsames Ineinander von Glück und Trauer ist überall in dieser Stadt und in den nicht für Touristen und reiche Snobs bestimmten Kneipen und Lokalen spürbar. Vielleicht gehört Kai bei aller Distanzierung vom konservativen Kulturdiskurs in Japan doch zu jener Tradition, die am Ephemeren der Schönheit und des Glücks, also an der Trauer im Glück festhält. Er versucht das aber nicht anhand der Natur, sondern der Alltagsszenen in dieser widersprüchlichen Stadt. Dazu passt wohl die methodische Entscheidung für einen nur scheinbar naiv anmutenden Realismus.
Kai Fusayoshi wurde 1949 in der Oita-Präfektur Kyushu geboren. Um sein Studium zu beginnen, kam Kai 1968 nach Kyoto und geriet gleich in den Wirbel jener unruhigen Jahre. Kai war aktives Mitglied der Anti-Vietnamkrieg-Bewegung, auch einer Hilfsorganisation, deren Ziel es war, amerikanischen Deserteuren des Vietnam-Kriegs zu helfen, ihnen evtl. trotz der staatlichen Kontrollen die Ausreise in ein Drittland zu ermöglichen. Seit 1985 betreibt Kai in der Kiyamachi-Straße, die direkt am lampiongesäumten Takase-Fluß liegt, eine Kneipe namens Hachimonjiya. In ihr findet man überall Bücherstapel an den durch Tabakrauch schwarz gewordenen Wänden. Der Charme der Kneipe liegt inzwischen darin, dass sie immer mehr den Charakter einer Spelunke annimmt. Hierher kommen Journalisten und Intellektuelle beiderlei Geschlechts, Studenten und Studentinnen, Möchtegern-Künstler und richtige Künstler, Möchtegern-Filmemacher und wirkliche Filmemacher, vor allem viele selbsternannete Dichter und amüsante Witzbolde. Für die aus Tokyo angereisten Verlagslektoren ist Hachimonjiya inzwischen eine obligatorische Station. Man trifft hier unerwartet Freunde und Freundesfreunde, auch Freundinnen der Freundinnen, was auch oft Anlass tragikomischer Szenen ist. Kai steht immer hinter der Theke – als Streitschlichter, als geistreicher Gesprächspartner, aber auch als Gerüchtekocher. Selber nicht blind für den Charme der eleganten, galanten und manchmal subversiven und kapriziösen Frauen genießt er offensichtlich Gespräche mit den Besucherinnen intensiver als mit den männlichen Gästen, die gerne lange Storys erzählen. Er kann auch, wenn auch nicht den Casanova, so doch einen Verführer von mephistophelischem Format spielen. Auf alle Fälle ist Kai der Kristallisationspunkt der regelmäßigen Besucher. Diese Kneipe ist notorisch und berühmt deswegen, weil es keinen Ruhetag gibt. Ob Weihnachten oder Silvester, ob Neujahrstag oder Obon-Tag, der Laden ist immer offen. Die Kneipe ist auch dadurch berühmt, dass sie solange geöffnet ist, bzw. dass der Besitzer und Betreiber, nämlich Kai, solange aushält, bis die letzten Gäste weggehen – das dürfte manchmal 4 Uhr morgens sein. Das ist im Vergleich zu einer anderen in der Nähe befindlichen Kneipe, die die letzte Bestellung bis 10 Uhr vormittags duldet, zwar keine sensationelle Leistung. Wenn man aber bedenkt, dass Kai neben dieser Arbeit viel fotografiert und zahlreiche Ausstellungen organisiert, dass er auch in einem Restaurant, das im Norden der Stadt liegt, oft mitarbeitet, drängt sich einem die Frage auf, wann und wo er überhaupt schläft. Übrigens: Das Restaurant heißt Honyarado und ist längst in die Geschichte der intellektuellen und studentischen Opposition in Kyoto eingegangen als Treffpunkt von Studenten, jungen Intellektuellen, Künstlern und alten Berufsrevolutionären, einer Spezies, die es nur in dieser Kessellage namens Kyoto gibt. Und diese Tradition wird in Hachimonjiya weitergepflegt. Natürlich hat sich die Kundschaft geändert. Es gibt keine Berufsrevolutionäre mehr, wohl aber jene nonkonformistischen, permissiven und gleichzeitig subversiven jungen und alten Frauen und Männer, von denen viele aus verschiedenen Regionen in Japan stammen, aber mit ihren einmalig seltenen Biografien hier in dieser widerspruchsvollen Stadt individualistisch -zumindest im Kopf manchmal zur Promiskuität neigend- ihr Leben gestalten, mit ein bisschen Trauer und Erwartung von Glück, das vielleicht heute Abend wieder in dieser Kneipe unversehens einbrechen kann – um dann in die Bilderkollektion von Kai aufgenommen zu werden. Von diesem Kyoto zeugen die hier ausgestellten Fotos.
LE MONDE DE KAI
Prof. Dr. Mishima Ken’ichi, Osaka
L’univers des photos de Kai Fusayoshi ne représente ni la tradition, ni la modernité à Kyoto, ni même la symbiose tant évoquée entre tradition et modernité.
Ses sujets sont des ruelles abandonnées mais néanmoins vivantes, des rues comme coulisses de la ville, des rues pleines de normalités japonaises discrètes. Parfois il capte une scène de jeu, des enfants regardant l’objectif ou le photographe, souvent des chats, des personnes âgées aussi, dont se dégage encore une attention vivace, malgré leur fatigue de vivre…
Mais avant tout il photographie de jeunes femmes, conscientes de leur charme, chez lesquelles le photographe tente de retenir un instant fugace, où ces femmes dévoilent ce charme qui échappe à leur contrôle.
Des images de gens avec peu d’attentes et peu d’exigences, avec des performances et des perspectives d’avenir humbles, mais qui se révèlent comme experts du quotidien sachant jouir de la beauté éphémère de certains moments privilégiés. Chez eux le photographe essaie également de retenir cette saveur cachée, de déceler la fascination qui les lie à la vie dans cette ville chargée de contradictions.
On ne trouve pour ainsi dire aucune photo stylisée de grand intellectuel ou d’artiste connu dans le répertoire de Kai. On ne retrouve aucune expression narcissique chez les personnes photographiées. Ils savent seulement que leur image est captée, et encore, pas toujours.
Dans ce sens, pour citer Benjamin, Kai est comme cet “amateur rentrant chez lui”, qui, “avec sa quantité de prises originales, ne vaut pas mieux qu’un chasseur revenant de sa cabane avec des masses de gibier”. Ce que Benjamin ne savait apprécier ou reconnaître dans sa “Petite histoire de la photographie”, est devenu réalité pour Kai : conquérir un nouveau terrain, plus de cent ans après l’apparition dans l’avant-garde artistique de tel ou tel autre amateur se préoccupant de “la photographie de figure, se représentant soi-même, ses proches et amis, son amante”; ce terrain est celui d’instants auratiques du quotidien, le terrain de l’aléatoire.
Benjamin évoquait, en rapport à l’accélération du développement technique de la photographie “l’évanouissement de cette génération en regard de l’évolution technique” qui , durant les dernières décennies du 19ème siècle, tente, “à travers l’art de la retouche” de retrouver l’Aura refoulée par la luminosité. Il écrit également : “Et tout de même, ce qui décide de la photographie, c’est la relation qu’entretient le photographe avec sa technique. “Dans les images de Kai, il n’y a aucune retouche. Au lieu de la retouche, on voit les jeux d’ombre et de lumière sur les visages, dans les rues, sur les façades. L’aura nécessite apparemment l’ombre, et ne doit donc pas être refoulée par la luminosité. Sans tenir compte de toutes les évolutions techniques dans la photographie, sans tenir compte de la digitalisation, Kai reste fidèle aux images monochromes classiques, non pas par “évanouissement”, mais dans une prise de distance consciente et réfléchie d’avec ce processus de “gadgetisation” technologique que subit aujourd’hui le matériel photographique.
Avec cette technique simple, Kai n’a pas besoin de “simuler” l’aura, comme le font de nombreux photographes professionnels. Simultanément à l’aura furtive captée, il utilise une stratégie de perception, rappelant le pathos cinématographique retenu et la colère cachée du néoréalisme italien. A travers elle, il tente de documenter la misère au quotidien, la misère esthétique contenue dans ces instants auratiques où l’on ressent une plénitude vitale. Il s’agit bien évidemment de la misère découlant de la modernisation sauvage, portant atteinte à la qualité de vie dans la ville de Kyoto, mais pas uniquement de cela. C’est sûrement pour cela que la technique monochrome correspond si parfaitement à Kai. Avouons-le, c’est également pour cela que ses images ne sont pas à l’abri du romantique-kitsch. Toutes ses images ne sont pas réussies. Mais déjà dans ces scènes moins réussies, une certaine tristesse nous frappe : la tristesse de devoir vivre dans cette cille, dans cette société à la fois engourdissante et destructrice, mais également le bonheur sommeillant en chacun et prêt à exploser à tout moment. Une sorte de tristesse dans le bonheur, ou de bonheur dans la tristesse.
Cette ambiguïté correspond peut-être au caractère de la ville de Kyoto. Le centre est caractérisé par une intense activité économique. Les banques et les grands magasins dominent la scène, mais il y a également une grande quantité d’hôtels, vastes cubes en béton. Le capitalisme dans toute sa puissance autodestructrice, n’épargne pas non plus cette “ville impériale et traditionaliste”. Et dans la ceinture, s’étendant de l’ouest de la ville jusqu’au pied des montagnes à l’est, se trouvent les temples et leurs magnifiques jardins, visités par des hordes de touristes ravis d’être enfin (ou de nouveau) à Kyoto. Le Kyoto touristique se voit sur des cartes brillantes et hautes en couleur. Mais ce Kyoto des mises en scène du rituel du thé et des costumes traditionnels, des foires à touristes, n’a rien à voir avec la vie de ces habitants, qui une fois leur travail terminé, se rendent dans les bars, pour rencontrer des gens intéressants, à l’affût d’une discussion enrichissante et surtout pour se désinhiber grâce à l’alcool. Et pourtant le Kyoto de ces gens-là, n’est pas imaginable sans sa partie historique. Déjà certains noms de rue tels que Takakura, Tominokohji ou Gokomachi sonnent étrangement, quasi solennels et chargés de tradition. Les personnes fréquentant les bars savent qu’ils vivent dans une ville historique. Cela n’influence pas véritablement leurs expériences, mais contribue au mouvement général de la ville.
Une étrange interpénétration du bonheur et de la tristesse est perceptible partout dans la ville, et pas seulement dans les lieux réservés aux touristes et aux gens fortunés. Peut-être que Kai appartient, malgré sa distanciation du discours culturel conservateur au Japon, à cette tradition qui repose sur l’éphémère de la beauté, et donc sur la tristesse dans le bonheur. Il ne l’exprime pourtant pas à travers les éléments de la nature, mais à travers les scènes quotidiennes de cette ville contradictoire. A cela correspond apparemment le choix d’un réalisme teinté d’une fausse naïveté apparente.
Kai Fusayoshi est né en 1949, dans la préfecture d’Oita à kyushu. En 1968, il vient à Kyoto pour poursuivre ses études et se laisse rapidement entraîner dans les mouvements tumultueux de ces années. Kai était un membre actif du mouvement contestataire de la guerre au Vietnam et participait à une organisation qui tentait d’aider et de soutenir les déserteurs américains. Depuis 1985, Kai tient un bar nommé Hachimonjiya dans la rue Kiyamachi, se situant à quelques pas de la rivière Takase, éclairée sur ses rives par des lignes de lampions.
Ce bar est rempli de piles de livres posées contre les murs noircis par la fumée. Le charme de l’établissement réside dans le fait qu’il ressemble de plus en plus à un bouge. S’y retrouvent les journalistes et les intellectuels, étudiants et étudiantes, les artistes de pacotille et les vrais artistes, les réalisateurs minables et les grands réalisateurs, et avant tout des poètes improvisés et des gais lurons.
Pour les éditeurs venus de Tokyo, le Hachimonjiya est devenu une étape obligatoire. On y rencontre inopinément des amis et des amis d’amis, et des amies d’amies, ce qui donne souvent lieu à des scènes tragi-comiques. Kai, debout derrière le comptoir, est à la fois médiateur lors de conflits, un partenaire de discussion hors pair et parfois initiateur de ragots.
Sensible aux charmes des femmes élégantes, galantes et parfois subversives et capricieuses, il apprécie manifestement davantage les conversations avec la gente féminine qu’avec les clients masculins, se perdant souvent dans de trop longues histoires. Il sait aussi à ses heures se transformer non pas en Casanova, mais en séducteur machiavélique.
En tous cas, Kai est le point de cristallisation des clients réguliers. Le bar est également fameux pour ses horaires d’ouverture. Hachimonjiya est ouvert tous les jours de l’année même lors des fêtes. Il est égarment connu pour être ouvert jusqu’à ce que les derniers clients s’en aillent, que ce soit à 2 ou à 4 heures du matin. Ceci n’est pas exceptionnel pour la ville de Kyoto, mais si on tient compte du fait que Kai, à côté de ses activités de tenancier, prend de nombreuses photos, organise des expositions, publie des livres et aide parfois dans le restaurant situé au nord de la ville, on peut se demander s’il trouve encore un moment pour dormir.
A propos, le restaurant, s’appelle Honyarado est depuis longtemps entré dans l’histoire des intellectuels et de l’pposition estudiantine comme le point de rencontre des étudiants, des artistes et des vieux révolutionnaires professionnels, une espèce qu’on ne trouve qu’à Kyoto! Et cette tradition est poursuivie au Hachimonjiya. Bien sûr la clientèle a changé. Il n’existe plus de révolutionnaires professionnels, mais plutôt de jeunes anti-conformistes, permissifs et subversifs à la fois, originaires de différentes régions du Japon, qui viennent confronter leurs histoires individuelles dans le bar de Kai, à la recherche d’un peu de bonheur empreint de tristesse dans cette ville contradictoire, et qui finiront sûrement sur sa pellicule.
C’est de ce Kyoto là que parlent ces images.